集成モザイクタイル作家、池田泰佑氏インタビュー。京都が生んだ幻の美術タイル「泰山タイル」の魅力を語る。

かつて、JR京都駅の南に、建築家たちが足しげく通ったと言われる泰山製陶所がありました。設立は、近代洋風建築が注目されていた1917年(大正6年)。ここで作られる建築用の装飾タイルは「美術タイル」と謳われ、秩父宮邸や那須御用邸など旧宮内省関係をはじめ、官公庁、美術館やホテルなど、著名な建築物に用いられたと記録されています。しかし製陶所は1973年(昭和48年)に閉鎖。多くの建築家に愛された「泰山タイル」は、今では幻となってしまいました。

あれから50年。この夏、泰山タイルが注目された2つの出来事がありました。地元京都で開催された展覧会と、公式サイトの開設です。これらに携わっているのが池田泰佑氏。泰山タイルの生みの親である池田泰山の孫にあたり、泰山タイルの技法の継承者です。現在は、製陶所が実用新案を取得した集成モザイクタイルの作家として、さまざまな作品を発表されています。

あの頃、泰山タイルはなぜ多くの建築に愛用されたのか。泰山タイルの魅力や作家活動に至る背景など、池田泰佑氏にお話いただきました。

 

 

「美術タイル」の呼び名を恣にした、池田泰山の信条。

 

――モダン建築に愛用された「泰山タイル」。独特のレトロな雰囲気があり、とても趣があります。建築素材というよりは美術品や工芸品に近い印象を受けますが…。実際のところ、どのようなタイルを「泰山タイル」と呼ぶのでしょうか。その特徴や定義を教えてください。

そうですね。製陶所を設立した池田泰山には、信条にしていることがありました。技術的なことと、哲学的なことがありました。

技術面では、まず「手でつくる」ということです。土台となる生地をつくり、石膏の型に入れて一つひとつ起こしていくのはすべて手作業です。手づくりの生地は柔らかくて石膏の型からも取り出しやすい。機械で作られたタイル生地が硬く締まっているのとは対照的です。機械で量産する場合は、生地を金属の型に入れてプレスするので、硬いタイルになるのです。柔らかい生地をつくるために、泰山タイルでは陶土にもそれにふさわしい独特なものを使っていました。

釉薬にもこだわりがあります。清水焼の釉薬を基本にしながら独自の釉薬を研究していました。特にこだわったのは「色」です。釉薬に含まれている金属が窯の温度でさまざまな色へと変化します。「窯変」と言われるもので、泰山タイルが研究に研究を重ねたところです。釉薬自体はもちろん、同じ窯の中でもタイルを置く場所によって温度が違う、そんな微妙な変化も活かしてタイルをつくってきました。

 

――独自の陶土と独自の釉薬を使い、手づくりで丹念につくられたタイルなのですね。「唯一無二」と言われるのも頷けます。では、泰山タイルの哲学とは何でしょうか。

池田泰山がよく語っていたのは「美しくなければならない」ということでした。

泰山製陶所ができた大正時代は鉄筋コンクリートの近代洋風建築が盛んに建てられていましたが、そこで使われるタイルには2つの役割が求められていました。

1つは衛生的であること。当時の建築物でもタイルはよく水回り空間で使われていましたが、それは衛生面で優れているというタイルの特性によります。

そしてもう1つが、鉄とコンクリートの建物を装飾することです。泰山タイルは、装飾を目的としていました。「美しくなければならない」というのは、タイルを張ることによってその建築の魅力を高めるものでなければならないということを意味します。たとえば、エントランスに張られた1枚のタイルが、建物への興味を喚起したり、訪れる人の期待感や想像力をふくらませる。そういう役割を泰山タイルは担っていました。

ですから、池田泰山はタイルを依頼してくる建築家の方々とも、よく話をしたそうです。どのような建物を作るのか、そのためにはどんなタイルがふさわしいか。建築家の依頼に対して、その建築物と泰山タイルがマッチしないと思った時には「ここに張るのは泰山タイルではなく他のタイルのほうが良い」と厳しく言うこともあったそうです。タイルを張れば良いのではなく、張ることでその建物をより良くすることが、泰山タイルが目指したものだったのです。

 

――そういった信条のもとにつくられたタイルだから、多くの建築家が泰山タイルを求めたのですね。

製陶所を訪れた建築家と夜遅くまで話し込むことも珍しくなかったようです。お弟子さんを連れて来られる建築家も多く、建築事務所ぐるみで泰山タイルを愛用されるという方もおられました。泰山製陶所の記録を見ると、宮内庁や官公庁から公共・商業施設などさまざまな納入実績が記されています。個人の邸宅などを含めると、その数はさらに多いでしょう。製陶所57年の歴史でこれだけ多くの建築物に使われてきたというのも、建築家の方々に信頼されてきたからだと思います。

 

――美しさにこだわり、建築家にも影響力があった。池田泰山とはどういう人だったんでしょうか。

愛知県の出身で、京都に出て清水焼を学び作家として活動していました。そして花器、茶器、置物などを制作していました。泰山製陶所でつくるものは工芸品ではありませんが、置物や陶板もつくっていましたし、建築関係ではタイルのほかに東京国立博物館や先斗町歌舞練場の鬼瓦、寺社仏閣の欄間、水口やレリーフなども制作していました。

 

――もともと作家として活動していた経験があったから、独特の趣がある手づくりのタイルが誕生したのですね。

先ほど機械を使うと生地が硬くなるというお話をさせていただきましたが、硬い生地では釉薬があまり浸透せず少量しか載せられません。しかし手づくりの柔らかい生地は、釉薬ととても良く馴染みます。たっぷりの釉薬を載せることができるので、ぽってりと美しく落ち着いた雰囲気をつくり出すことができるのです。

建築用ですから工芸品ではありませんし、手づくりですから大量生産もできません。使われるのは建物の一部分ではありますが、小さくてもキラリと光るものを求めたのでしょう。

京都で開催された泰山タイル展では、現存する泰山タイルの数々が展示されていたほか、彫刻やレリーフなども出品された。壁面中央と右手に飾られているのは、池田泰佑氏の集成モザイクタイルの作品。

泰山タイル展のギャラリートークでは、池田泰佑氏(写真左)とともに柏原卓之氏(写真右)も登壇。柏原氏はDJや街歩きツアーのプロデューサーとして活動するほか、泰山タイルのコレクターとしても知られている。ギャラリートークでは展示作品の解説やエピソードなどを披露。

 

製陶所閉鎖。泰山タイル継承への思いと決意。

 

――池田先生が泰山製陶所におられたのはいつ頃ですか?

1965年(昭和40年)から閉鎖する1973年(昭和48年)までです。

池田泰山は私が7歳の時に亡くなっておりますが、製陶所には泰山に師事していた職人さんが残っておられ、私はその方に、陶土も釉薬も、泰山のすべてを教えていただきました。

私が製陶所に入った頃は、世の中は高度経済成長期で建築物も大量生産の時代です。泰山タイルも、ある程度の量産化を模索していた時期がありました。しかし、量産しようとすると、どうしても泰山タイルの持ち味が失われてしまう。特に泰山タイルに使われる陶土が希少であったため、量産化では土の質から違ってしまいました。そのため見る人が見ると「これはなんだ、泰山タイルと違うじゃないか」となる。そうすると、泰山タイルのクオリティを求める建築家からの注文は減ってしまいます。

一方で、建築ラッシュに伴い装飾タイルにそこまでのクオリティを求めないケースも増えてきました。同時に装飾タイルを大量生産する会社も増えていきます。そんな時代の流れの中で、泰山タイルの受注はますます減少していきました。

そして、製陶所は閉鎖することになったのです。

 

――泰山タイルは厚みがありますから、量産するにはそれこそ大量の陶土が必要になりますね。

実は、私が製陶所に入った頃から、泰山タイルに使える「土」がなくなるという話は出ていました。そうなると、今まで通りのつくり方はいつまでも続けていられません。

そういう状況の中で生まれたのが、実用新案も取得した「集成モザイクタイル」です。建築材料としての泰山タイルは生地に厚みがありますが、集成モザイクタイルは小さく割って使うものなので生地が薄く、使われる土の量も少なくてすみます。

製陶所の存続がいよいよ難しくなってきた頃、懇意にしていた建築家の方から「もしも製陶所が閉鎖することになっても、泰山タイルの技術だけは残してほしい」という話をいただいていました。私も、製陶所がなくなっても集成モザイクタイルは続けていこうと思いました。

 

――製陶所が閉鎖してから、池田先生はどのように活動されてこられたのですか?

京都の工業試験場で、伝統産業などの分野で商品開発の研究サポートをしていました。そこでは良い経験をたくさんさせていただきましたが、中でも心に残っていることが2つありました。

1つは、デザインというのは「意匠」だけを意味するのではなく「ストーリー」であるということです。出来上がったものを使う人がどう感じるか、どのように使われるか。そういうところまでがデザインの範疇なのです。さまざまな商品開発に関わる中で、その考え方の大切さに改めて気づかされました。

そしてもう1つは、一緒にものづくりに取り組んでいた工場に出向き、従業員の方と話し込む中で、ある方がポツリとおっしゃった言葉です。「現場が呼んでいる…現場には大事なことがたくさん転がっているよ」と。それは、時代が移り状況が変わっても通じることではないかなと思っています。

 

――商品開発のサポートを通じてさまざまな経験をされてこられたのですね。お忙しい中で集成モザイクタイルの作品は作っておられたのですか?

時間が空いた時に土や釉薬などの材料を集めて、泰山タイルの技法をいつでも発揮できるようにという準備はしていました。作品づくりのためのスケッチ等の制作も常に行っていましたが、本格的に始めたのは50代半ばで工業試験場を退職してからです。

ありがたいことに、作品を発表するようになると泰山タイルをご存知の方からお声がけをいただくようになりました。製陶所時代に交流があった建築家やその関係者の方々です。「建物のイメージを乗せた作品をつくって欲しい」という依頼もいただいています。

 

――泰山タイルを忘れずにいた人たちがおられたのですね。改めて泰山タイルの影響力の大きさを感じます。今、集成モザイクタイル作家として池田先生が発表されている作品には、「森の向こうに・・・」という一貫したテーマがあるそうですね。

池田泰山の作品には海や船など「水」にまつわるものが多かったのですが、私は木や森に興味がありました。幼い頃の住まいは、周囲にお寺の森が鬱蒼と続いていて、毎日その森を抜けて学校に通っていた。そういう経験が影響しているのかもしれません。

樹木や森を描くことで、その森の向こうに「何か」を感じてほしい。それが「森の向こうに…」というテーマに込めた思いです。森の向こうに何を見るか、見る人の想像力を掻き立てるような作品になればいいなと。明るく新しい世界への好奇心や期待感などを感じてもらえれば嬉しいですね。そして、その人の気持ちがより良く豊かになってもらえたらいいなと思います。

 

――最近は、創作だけではなく愛好家や一般の方を対象にしたワークショップも開催されていて、毎回好評だと聞きました。

製陶所時代からお付き合いがあった中村タイルさんと一緒に、さまざまな活動に取り組んでいます。

泰山タイルの特性の「手起し」を体験するワークショップでは、製陶所で使っていた型などの素材を使い、泰山タイルの技法でタイルづくりを経験していただいています。泰山タイルで使っていた土などはもう手に入りませんが、それに近い状態のものをいろいろと試作しています。

また、中村タイルさんではモザイクタイル作家の中村ジュンコさんのワークショップも開催されていて、私も集成モザイクタイルのアートイベントでコラボさせていただきました。中村ジュンコさんは、技術・デザイン・造形力に優れ洞察力もある方です。お弟子さんからの信頼も厚く、イベントでも参加者のみなさんの期待感や想像力をかきたてておられ、参加された方にとってはとても楽しく有意義な時間となったと思います。

 

――製陶所閉鎖50年の今年、泰山タイルの展覧会や公式サイトのオープンなど、泰山タイルに関する活動もいろいろと行われました。「令和泰山」の動きもあるようですが。

光栄なことに、今も泰山タイルに興味を持ってくださる方はたくさんおられますし、泰山タイルの伝統と創造を受け継ぎ「令和泰山」をつくっていこうと考えてくださる方もおられます。かつてと同じ泰山タイルを作ることは今となっては不可能ですが、私が協力できるところがあれば尽力させていただき、泰山の伝統を伝えていってもらえたらと思っています。

今年京都で開催された「泰山タイル展」では、泰山タイルと中村ジュンコ氏のコラボ作品も展示された。中村ジュンコ氏は多くのファンを集める注目のタイル作家。中村タイル社が進める「令和泰山」の星でもある。

 

 

 

池田 泰佑 氏

1943年、京都生まれ。集成モザイクタイル作家。池田泰山の孫として泰山タイルの技法を承継。これまで集成モザイクタイルの壁画制作をはじめ、彫刻作品なども数多く発表。

 

中村タイル株式会社

1950年、大阪で創業。タイル販売やタイル工事を行っており、泰山製陶所とも懇意にしていた。近年はDIYなど一般向けのタイル商品の販売や、本社イベントルームにてタイルのワークショップを開催。「令和泰山運営事務局」として泰山タイルに関するさまざまな活動を行っている。

 

泰山タイルが使われた建築物のリストや関連イベントなど、泰山タイルの詳細につきましては、泰山タイル公式ホームページをご覧ください。

 

「泰山タイル展」の記事もあわせてご覧ください。

 

Michio Kii

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